水平線と垂直線とに囲まれた、四角い冷蔵庫の中に配される様々な色やカタチ。扉を開くたびに位置を変え、多くなったり少なくなったり...とうとう存在しなくなったりを繰り返す食品パッケージのリズミカルで楽しいさま、その整然と並ぶ美しさ。

 冷蔵庫を開けるたび、私はモンドリアンが描くコンポジションの、バランスよく広がる美しさを、そこに連想していました。

 水平と垂直による厳格で"固定的"な関係性と、色彩やフォルムが織りなす自由で"可変的"な関係性。この二つの関係性が両極として対立し均衡に至る。従来の絵画のような空間や奥行きの効果を排除することが、真に純粋なリアリティと調和を表現しうる。

 モンドリアンは、リアリティの表現が“純粋造形”によってのみ確立され得ると信じ、その探求と試行錯誤に末に、ようやく彼の代表作となる、水平・垂直の直線と三原色から成る「コンポジション」を完成しました。

 また、モンドリアンについて研究をすすめる学芸員の福士理さんは、アートスケープのインタビューで、このように語っています。

 "画面における部分と部分、あるいは部分と全体などの関係性が、見る人の意識によって自由に結合と組み替えを繰り返し、際限なく更新され、時間の推移とともに移り変わっていく、究極のバランスやプロポーションといった固定的な発想ではなく、見る人の能動的な知覚態勢において、その都度生じる諸関係の明滅、それこそがモンドリアン作品がもたらす豊かな絵画体験を支えている。" 

 なるほど。日々、配置を変えながら四角い箱の中を自由に動き回る食品と、水平線のある四角い箱。両者が一体になってバランスを保つ関係性に、コンポジションを連想するのも、不思議なことではないのかもしれません。

 抽象絵画が確たるものとされていなかった時代に、モンドリアンが、こだわり続け、辿り至った「コンポジション」。その作品において、彼が真に表現したいと思った"リアリティ"とは何だったのでしょうか。

 わたしは思います。

 逃れることのできない生物の宿命(限りある命)、組織や規律、そのような厳格な枠組みの中で、日々を生きる"個"の存在の自由さ、人の営みを心から愛し、そのふたつが均衡することで、平和的、豊かな世界が実現することを、そこに表したかったのではないかと。

 わたしが、冷蔵庫の中にみてるもの、この作品を通して表現したいと思うことはふたつあります。

 ひとつめは、モンドリアンが表現し続けようとした"二極の均衡"、"社会"と"個"。究極的には"肉体的な死"と"今日日的な生"が均衡する世界の構図です。

 ふたつめは、保管庫としての冷蔵庫の中にみる"人の営みと文化"です。

 日々の食生活や嗜好性がみえることはもちろん、春には七草が、クリスマスにはキチンが入るように、日本の一般的な風習や食文化も表れています。また、誕生日や結婚記念日、個人にとっての特別な日の食材が、特別な感情とももに保管されてもいるのです。

 今でこそ、わたしの冷蔵庫には、そうした特別の料理が大切にしまわれることもありますが、学生時代には、ビールとオレンジジュースばかりの小さな冷蔵庫だったことを覚えています。高熱で寝込んだ後、どういうわけか、冷蔵庫の中から携帯電話が発見されたのは、社会人になって間もなくの、ひとり暮らしの頃だったでしょうか。東京から北海道へ戻ってきたばかりの冬には、窓のサッシにぶら下げたビニール袋が、冷蔵庫の役割を果たしてくれました。

 モンドリアンに敬意を表し、ここに、Composition と題した本作において、わたしは冷蔵庫の撮影を続けることで、そこに、自分なりの"リアリティ"を見出したいのです。

山本 真紀子

参考